川柳大心ホームページ「言霊」より年度別に掲載します。→2016年度

 

「ひらがな」2016年12月

 

 第31回国民文化祭・あいち2016「川柳の祭典」は、犬山市民文化会館で11月20日(日)に開催されました。札幌川柳社からは7名が出席しました。
 小学生・中学生の部の応募者数は12、897名でした。文部科学大臣賞は次の作品が選ばれました。
     ごめんねと言われてかえすいいんだよ  広島小5年 難波 孔一
 漢字は一字しか使われていません。やさしくすなおに詠われています。大人たちの作品は、漢字を多く使って詠っています。なぜひらがなで表現できないのでしょうか。余りにも漢字の意味性に頼り過ぎているからではないかと思います。

 ひらがなの多様は、幼稚に見えるのかもしれないのですが、上手く使用することによっては、強い共感を呼ぶのではないかと思っています。

 童心に還ることも誌心を研くことに繋がる、と考えて悩んでいるのですが。

 

 

「好きになろう」2016年11月

 

   ことわざに「好きこそ物の上手なれ」があります。好きなことは熱心に行い、勉強し、工夫も加えるので、非常に上達が早くなるということ、と記されています。と同時に、好きでなければ長続きはしない、と考えています。ぼくも45年間も川柳を続けてこられたのは、まさに好きだったからだ、と思っています。
 道新の「朝の食卓」に坂井友子さん(陶芸家・陸別)が「好きになること」で書かれています。「好きは、いろんなパワーの源。好きは心をスポンジのように柔らかくしてくれる。好きは心の柔軟体操。そして好きは心を豊かにしてくれる。」
 良い言葉だと思います。好きは、女と子を合わせた字ですので、女の子になろう、とぼくは言っています。川柳を好きになろう、川柳を初めて心の触れ合いを持とう、川柳の笑いで若さと元気を、川柳は心の日記、好きになって階段を上りましょう。
 五・七・五音のリズムで、心を豊かにしましょう。 

 

 

「うまい句」2016年10月

 

 うまい句とは、どのような句を言うのでしょうか。
 課題吟や雑詠吟(自由吟)では選者がおりますので、その選者が選んで評価された句がうまい句となります。ところが、選者には好みがありますので、絶対的な評価とはなりえません。もしも、違った選者の場合に、必ずしも同一の句が選ばれるとは限らないからです。共選の場合は、二人の選者に同じ句が選ばれる確立は、30から40%位しかないのですから。
 三才の句が、片方の選者では没句になり、またその反対もありえるのです。それだけ1句の評価とは、難しくもあり不変なものではないのです。あらゆる文芸の世界での作品の評価は、やはり選者の感性や経験や好みに委ねられているのです。
 うまい句とは、自己の評価基準であり、自己や他者の作品の選をする目を養い、自己認識することなのです。一生でうまい句を残せるか、自己満足でもいいのではないか、と考えています。

 

 

「添削」2016年9月

 

 毎月、200句ほどの添削をしているのですが、なぜに添削をする必用があるのでしょうか。
 作者は一句を生み出した時に、推敲をしているでしょうか。推敲のポイントは、添削のポイントでもあります。
  ①句意。②句姿。③句調。④句評。の4つを頭に入れておかなければなりません。
 句意とは、句の内容を把握できるか。句姿とは、ひらがな・漢字などがバランスよく使われているか。句調とは、リズム感が良いか。句評とは、その作品の評をできるか。これらのことを念頭に置きながら、推敲や添削をする必要があります。
 添削をするとは、原句よりも良い句にすることです。そのためにこの4項目を大切にして、作品と対峙しているのです。でも、必ずしも原句よりも良くなるとの補償はありません。それだけ一句とは、言葉の組み立て方によって変化するからです。添削とは、あくまでも参考であり、句作のための一つの指針だと思っています。

 

 

「階段」2016年8月

 

 

   句が作れなくなる。壁にぶつかる。初心の内は、誰もが悩まされる問題である。
 句は作らなくなるからであって、作句から逃げてしまうからである。常に前を見て、作ることである。題材はいくらでも転がっているのだから、十七音に組み立ててみることである。今の私に作られる句を生み出すことである。
 壁は自らが作るものであって、実際には有りはしない。多読、多作、多捨を続けることによって、架空の壁は消失していく。必ず句は上達をしているので、自信を持つことである。自己満足でもいい、階段を上ることである。三段上って一段下がる、その繰り返しによってやがて五段目に到達するのである。そして、少しずつだが、川柳の奧の深さを体得していくのである。
 楽しく階段を上ろう、川柳を好きになろう、それが特効薬である。

 

 

「心の裏」2016年7月

  

何事にも表と裏があるのですが、川柳を作る上ではどちらに焦点を絞るべきでしょうか。日常の中での視点は、表に焦点を当てていますが、川柳眼となると、いかに裏側に心の眼をむけるか、が必用となります。その心の眼の使い方が醍醐味であり、川柳人としての喜びの一つだと思っています。
 物事の裏を読む、人間の心の裏を読む、自己の心の裏を読む、全ての事象の裏に焦点を当てることによって、なんとなく本物の姿が見え、人間の本質が浮かんでくるような気がします。意地悪な視点を持つこと、それがある意味においては、川柳人にとっての大切な心の眼だと考えています。
 批判力、風刺力、ユーモア力、の表現の裏には、温かな眼で見る心と、冷ややかな眼で凝視する心とが混在しなければ、裏側を描出することは出来ないのでは、と思っています。

 

  

 「人間を詠う」2016年6月

  

   川柳は、人間の喜怒哀楽を詠うものだ、と言われてはおりますが、なかなか簡単に詠えるものではありません。人間の深層心理を覗いて、その心を詠うのですから、経験や体験を通した鋭い多面的な視点が求められます。

 このように書いたなら、川柳とは難しいものだから、私には無理だと尻ごみをしてしまいます。建て前はそうなのですが、自分の眼で見て、自分の心で、自分の想いを詠うしかないのです。難しく考えずに、今の自分の実力で表現することが大切なのです。そのためには、いかに日本語の素晴らしさを実感することかなのです。
 子供の川柳のように、ひらがなで心を打つ作品を生み出せるのですから、余りにも漢字の意味性に縛られないことです。ひらがなで一句を考えて、いかに漢字を当てはめるかが必用となります。文字の組み合わせ方によって、一句はあっと驚くほどの変化を見せます。その妙味を楽しみながら、今の自分の心を吐き出すしかないのです。楽しみ、ちょっと苦しみながら。

 

 

 「好き」2016年5月

 

  何事にも通じることだと思うのですが、好きでなければ長続きはしないのだと思っています。人生は挑戦することですから、何歳から始めたから遅いということはありません。特に川柳の場合は、人間探求詩であり、人間の喜怒哀楽を詠うのが主題ですから、人生経験の多い方が作品を生みやすいでしょう。
 初心の内は、五七五に纏めるのが大変なのですが、余り難しく考えずに自分の想いを吐き出すことが大切なのです。そのためには、日常を通していかに事象を見つめるか、見つめる目を養うかが必用なのです。
 事象とは、ことの成り行き・様子。ことがら。ですから何も難しいことではありません。身の回りを見つめる、自然を人間を観察する、好奇心を研く、そのための表現の手段として言葉が大切となります。
 国語辞典を見る習慣をつけることが大切で、語彙の豊富さが求められます。
好きになって続けることによって、少しずつ発想ガ豊かになり、言葉の組み立て方も上達していきます。先ずは好きになること、そして続けることなのです。

 

 

「言葉えらび」2016年4月

 
 
  5・7・5音で表現するのですから、いかに言葉えらびに注意を払うか、が重要となります。なぜならば、言葉の組み立て方によって、一句は生きもし 死にもするからなのです。そのために、川柳人の一人ひとりが悩み、苦しんでいるのですから。
 ①分かりすぎる句。②分かる句。③分かりづらい句。④分からない句。があります。
   ①は散文であり、説明句です。②は一読明解な句です。③穿ちが効いた句であり、その奥を読む必要がある句です。④抽象的な句であり、理解に苦しむ句なので、何パーセントかでも理解しようとする努力が求められる句です。
さて、一般的には、②+③割る2のような句が理解し易いので喜ばれるのでしょう。
いずれの句であっても、言葉の選択によって句は光を増しますので、辞典と友だちになることが求められます。
多読・多作・多捨・が必用なのですが、言葉えらびの妙味を実感することが重要となります。

 

 

「四季感」2016年3月 

 

 雑詠(自由吟)を作る時には、僕は四季感を大切にしています。それは人によっては違いがあるとは思うのですが、四季を意識することによって作句が楽になるからです。
 北海道に住んでいるのですから、春夏秋冬の素晴らしさを実感して、その景色の移ろいの中に自己を投影させるのです。四季の中に身を置くことによって、句想を広げることができます。

  ・真冬日の空だ背骨のきしむ音
  ・福寿草いきていたぞと声をかけ
  ・体内の桜もひらく有頂天
  ・謳歌するジョッキの花の大通り
  ・ハートにもしみてふつふつ秋の雨
  ・心奥がおどる紅葉のきらめき

 平成二十六年の「一日一句・こころの日記」の作品なのですが、日々の想いを季節に溶け込ませることによって、着想がふくらんでいくのです。俳句にならないように気をつけて、いかに川柳にするかが求められます。四季感を察知する心が、作品の幅を広げるのではと考えています。

 

 

「自分の句を」2016年2月

 

   全国で一日に何千何万という作品が生み出され、発表され続けている。おそらく、同想句や類似句や、同一句も生まれているのだと思っている。僅か十七音の表現の世界なのだから、仕方がないと割り切らざるをえない。
 余りにも回りの作品に気を使い過ぎると、句が出来なくなってしまうので、自分の句なのだ、という自覚をもって作句に当たるべきである。自分が自分の言葉で、心の想いを表現する、その自信を持つことが大切である。
 一句とは単なる報告ではないので、いかに膨らませた想いを十七音に凝縮させられるか、を少しずつ体得していくしかない。
そのためには、日常を見つめて、その中から何に焦点を当てて一句にまとめるか、を練磨する必要がある。題材はいくらでもあるのだから、作れないではなく、作るんだの気持を大事にしなければならない。
 自分の句とは、今の自分の気持を曝け出すことなので、作品の巧拙は余り気にせずに、川柳が好きの心を大切にして、継続させることがポイントなのである。

 

 

「心あらたに」2016年1月 

 

   御神籤は末吉でした。大吉を目指してネジを巻きながら、一年を元気で過ごしたいと思っています。
 もう大望を描いても仕方がありませんので、地道に一歩を下山の道を、と考えています。下山する時の一歩は、登山する時とは違った一歩が待ち構えていますので、年齢を意識しつつも、堅実な一歩をと思っています。
 川柳の道でも同じなのですが、いくらでも句が湧いてくる時があり、さっぱりな時もあります。湧いてこない時ほど自己を見つめるチャンスだと思います。そのチャンスが新たな階段を登らせ、違った一句の奥の深さを気づかせてくれます。今年も川柳を楽しみ、私の一句を生み続けていきましょう。
   こころの日記として